美鶴は、中学時代の山脇を知らない。どんなに記憶をひっくり返してみても、その中に山脇は存在しない。
「中学の時からずっと、好きだったんだ」
そんなことを言われても、美鶴は山脇なんて知らない。
忘れようと思っても忘れられないほどの容姿なのに、その欠片も記憶にはない。美鶴の中学生活に、山脇瑠駆真という少年は、存在しない。
美鶴の視線も記憶も、澤村一人で飽和状態だったということなのか。
「ずっと、好きだったんだ」
両肩を捕まれ、美鶴はハッと我に返った。大きな瞳に吸い込まれそうな恐怖。この男は、事あるごとに美鶴を吸い込もうとする。美鶴には、そう思えてならない。
山脇の両手を払い除け、逃げるように家の奥へと走りこむ。その後を山脇がゆっくりと追った。
「来ないでっ!」
美鶴の言葉にも山脇は動じる様子もなく、ただまっすぐに美鶴の元へ向かってくる。瞳はただ一心に美鶴を見つめ、その一途さに寒気を感じた。
「大迫さん」
必死に逃げ場を探した。だが狭い室内では移動も限られる。すぐに突き当たりの台所に行く手を阻まれ、壁を背に逃げ場を失った。
山脇は、美鶴のすぐ目の前で立ち止まった。改めて両手をその肩に置き、顔を覗き込む。
少し彫りの深い二重の、はっきりとした顔立ち。真っ黒く大きな瞳と長めの睫毛。ともすると女性らしくも見えるが、軽く通った鼻筋からの延長線上に伸びる眉の凛々しさが、男性であることを示している。
笑みを湛えている優しい印象が多いので、真顔を向けられると逆にその真剣さがひどく大きく感じられる。同時に、意思の強さも……
いや、今までだって、優しく笑っていながらもはっきりとした物言いや、美鶴を言い負かしてついてくるところなどに、みかけに寄らない意思の強さを潜ませてはいたのだ。
堪らず視線をそらし、思い切って逃げ出そうとするところを横から抱きしめられた。その腕の強さに、逃げられないことを理解した。
「大迫さん………」
擦れる声。
「……み 美鶴」
その歯切れの悪さが逆に奇妙な色気を帯びる。全身の力が抜けるのを感じた。鞄を落としてしまったのにも、気づかなかった。
「ずっと好きだったのに言えなかった。アメリカに行ってからも好きだった。忘れたことはなかった。まさかこんなことろで逢えるとは思わなかったから、嬉しかった」
次第に早くなる口調。囁かれる言葉は流れるように止め処なく、少し荒れた息遣いがうなじに吹きかかる。
「まさか澤村のことを好きだったなんて、知らなかった」
澤村という名前に息を呑んだ。聡が教えたに違いない。
微かに身を震わせた美鶴の反応は、山脇にも伝わったようだ。いっそう強く抱きしめる。
「まだ好きなの? 忘れられない?」
―――!
自分でも信じられないほどの素早さで、山脇の腕の中からすり抜けた。
二・三歩離れて向かい合う。
「み…… 大迫さん」
唖然とした表情で見つめる山脇に、美鶴は全身が震えるのを感じた。
「―――やめて」
それを言うのが精一杯だった。
美鶴の震える声に、山脇は身体を大きく振るわせた。揺れるように一歩下がり、ゆるゆると両手を持ち上げる。その掌に視線を落とした。微かに震えている。
「あ……」
掌を凝視したまま、落ち着きなさ気に視線を彷徨わせ、やがて申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「ごめん」
瞳を閉じ、軽く眉間に皴を寄せる。
「ごめん。本当にごめん」
うなだれて詫びる山脇にどうしていいのかわからず、美鶴は自室に飛び込んでしまった。
襖を閉め、そのまま寄りかかるようにしてヘタリと座り込む。隣でも、腰を下ろす音が聞こえた。
きっと、家を出て行くつもりはないのだろう。
――何だと言うのだ?
頭が、まわらない。
好きなんだ
ガクンと身体が震え、勢い良く立ち上がる。
すばやく私服に着替えると、布団を引っ張り出してきて頭から被った。
混乱して、何も考えられなかった。そっと肩に手を乗せると、一瞬前の山脇の温もりが思い出され、激しい動揺に襲われた。
好きなんだ
……ウソだっ!
私のことを好きになるヤツなんて、いるワケがないっ!
布団の中で膝を抱える。
私の事を好きになるヤツなんて……
きっと、冗談を言ってるのだ。あいつは私をからかっているのだ。きっとそうだ。そうして私が本気になるのを見て、バカにするのだ。
山脇くんがあんたのことを好きになるワケないじゃない!
女子生徒の侮辱する声が聞こえる。
マジで信じるなんて、バッカじゃない
嗤い声が聞こえる。
嗤われる。本気になんてしたら、嗤われる。私を嗤って楽しんでる。
信じるな。あんなヤツのことなんて信じるな。
君のことが好きなんだ
耳元で囁かれる。
ギュッと目を瞑った。
君のことが―――
目の裏に、優しい瞳が浮かび上がる。あんな瞳、見たことがない。
クリクリとした真っ黒な瞳。男性にしては少し狭い肩幅。華奢に見えるその体躯。だが、その腕が伸びて美鶴を包む。押し付けられた胸板は見た目よりも厚く、相手が男性であることを教えられる。
君のことが……
その甘い声に身体が浮かび上がるのを感じた。驚いて目を開けると、辺りは真っ白だ。
上も下もわからなくて、ただ浮遊感に身を任せる。見上げると、目の前には優しい笑顔が浮かんでいる。
頭上から自分を見下ろしている。美鶴は必死に身を捩って向き合おうとする。だがしかし、身体が思うように動かない。
相手は美鶴の右に来たり左に来たり、その位置を定めてくれない。それは自分がただ不安定に揺れているからなのか、それとも相手が素早く動いているからなのか。
その姿を見失わないよう、なんとか視線を向け続ける。
相手も黙って、少し笑って見つめてくる。そのまっすぐに向けられた瞳が、やがてゆっくりと緩んだ。
口元が吊り上げられ、大きな瞳がいっそう見開かれる。
「バッカだなぁ」
叫ぶような高らかな声。
「僕が君なんかに惚れるワケないじゃないか。ひょっとして、本気にしてた?」
そう言うと山脇は、大声で笑い出した。身体を仰け反り、大口で笑い出す。
「自惚れるのもいい加減にしろよ。誰も君のことなんて考えちゃいないんだから」
―――っ!
弾かれたように身を起こした。
………
夢 ……?
部屋は真っ暗。時計は八時を指している。
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